心のこと~for Mind&Spirit

問題はストーリーの中に現れる~トラウマの向こうへ

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トラウマ:心的外傷。
衝撃的体験の後、長い間その記憶にとらわれてしまう状態で、
否定的な影響を持っていることを指す。

今回はリクエストがあったので、それに応える形で、トラウマについて書いてみる。
難しいリクエストだなと思っている。それには、2つの理由がある。
1つは、対面じゃないから、個別の状況に即して語れないこと。
もう1つは、トラウマの状況に苦しんでいる人、あるいは苦しんだことのある人が読む可能性があって、
おそらく、その人たちは、トラウマを信じてるってこと。

こうした人に寄り添うように書けるだろうか。
ときに反発を誘うような文も出てきてしまうかもしれない。
むしろ、反発する気持ちが出てきたら、チャンスだなって思うんだけど…。

いま、行き詰まりを感じている人が、多少の気楽さを味わえるように。

そんな思いで書こうと思う。
だから、この記事に専門性を求めてはいけない。
ただ、こんなとらえ方もあるんだなって思ってくれればいい。
それに、これを読んだからって、いまやってる治療を中断しないでね。
杞憂なんだけど、念のため。

ここから先、っていうか、1行目から書いているのは、
筆者なりの見解だ。
筆者の考えだ。
専門的な見解や、より一般的な業界団体(医療・心理学)の見解などは、
検索すればいくらでも出てくる。
リクエストされたのは、そうした普通の説明とは異なる観点のはずだ。
見解は、ものごとの解釈であり、思考であり、ストーリーでしかない。
ビジネスでよく言われてる気がするが、
「問題を提起し、その解決法を売れ」って。
それは、ストーリーを売れってこと。
つまり、世の中に出回っている様々なものは、
ストーリーなんだってことを確かめよう。
実は、トラウマも例外ではないんだ。

トラウマは、言わばストーリー(物語)の中にある。
ストーリーは書き換えができるし、
ましてや、ストーリーの外に出てしまえば、トラウマはないってことになる。
では、ストーリーを透かして、何が見えてくるか。
これが筆者の目指す方向だ。

医学あるいはフロイトのストーリー

症状がある。
どんな症状かによって、病名が決められ、原因が特定される。
そして、治療。主として、原因を取り除こうとする。

このプロセスは合理的だ。
痛みを感じて(症状がある)、
指先を見たら、棘が刺さっているから(診断する)、
棘を抜く(治療する)。
あとは患者の治癒機能で傷が治って行くのを見守る。

このストーリーでは、どんな症状に対しても、実行されるプロセスは一緒だ。
ものによっては、症状が出る前に予防のプロセスを導入することだってできる。
まさに、予防プロセスこそが、医療ストーリーの真骨頂なんだ。
ところが、トラウマはこうしたプロセスに乗りにくい。

トラウマの原因は、過去に経験した衝撃的出来事の記憶とされる。
記憶は取り除けない。
だから、当面の不安には薬を使うとしても、記憶を書き換える。
距離をとって眺められるようにするという治療になる。
簡単に言えば、慣らすってことかな。
認知行動療法の遷延暴露という何度も辛いことを思い出すやり方や、
WHOも推奨のEMDRという目の動きなどを利用した方法が使われることが多いようだ。

また、最近はトラウマは脳の傷であると言う意見が出てきている。
この意見に従えば、やがては薬や手術での治療が選択肢に入ってくるようになるのだろう。

ここまでが、トラウマらしきものをどうにかしようとしたときに、
最初に出合う医療的あるいはフロイト的見解に基づく立場だ。
そして、この立場のやり方で症状が緩和されれば、
このストーリーの中で完結できたってことになる。
喜ぼう。

しかし、100パーセント効く薬はないのと同じことが起こる。
ストーリーの中では、原因と結果が一意的に定まらないことは、よくあるんだ。
医学のストーリーも例外ではなく、症状に対する原因が見えなくなる。
背骨のどっかがヘルニアだからって、ヘルニア持ち全員に症状があるわけじゃない、みたいな。

フロイトの負(ふ)

ゲーデルを持ち出すまでもなく、ある1つのストーリーの中で全てが完結できることは少ない。
原因と結果の罠にはまれば、そうなる。
以前に書いた記事、
「原因と結果」の誤解。そして「不確かな感じ」への勇気。を読んでもらうといいんだけど。
筆者は、原因追求はほどほどがいいんじゃないかって思ってる。
研究対象として、専門家が取り組むのは好きずきだけど。
そもそも、症状の原因が記憶っていうのは、なじまないと思う。
なぜって、同程度か、それより酷い記憶を持つ人がいたとして、
症状のある場合と、ない場合があるからだ。
人の記憶に程度の解釈を入れるのは躊躇するけど。
実際、筆者はセッションの中で、激戦地での記憶、犯罪被害の記憶、虐待の記憶、などなど、
うかがった筆者が夢にうなされることもあるような記憶に多く接してきている。
で、酷い記憶が原因だというなら、
症状が出ててもおかしくない人は大勢いるのにって思う。
つまり、記憶に対する解釈によって、
原因らしさは揺れ動いてしまうってことなんだ。

そして、ここではもう一つ、
原因探しが、容易に犯人捜しになってしまう事例について押さえておきたい。
日本では話題にもならなかった(少なくとも筆者は知らなかった)が、
90年代米国を中心に先進諸国で巻き起こった一連の告訴告発事件だ。
多数の親が、自身の子どもたちから訴えられた。
カウンセリングによって、親からの虐待の記憶を思い出した子は、
現在の自分の不具合は、当時のトラウマによるのだと主張した。
詳細な調査の結果、そうではないことがわかった。
事実は、セラピストの思い込みによる記憶の刷り込みだ。
そうして、今度はセラピストたちが訴えられることになった。
詳しくは「危ない精神分析~マインドハッカーたちの詐術」矢幡 洋・著を読んでほしい。
トラウマを語るなら必読の書だと思う。

この本で筆者が衝撃を受けたのは、事件がどうのこうのということよりも、
記憶というものの脆さだ。
記憶を再生させるたび、当事者の都合によって改変されることだってあり得るんだ。
生活のほとんどが、この記憶というあやふやなものに立脚してるなんて、驚くしかない。
そんな観点から、苦しみの原因を記憶であるとする主張を見るなら、
それは本当の楽になる方向ではないように思える。

いや、何度も言うけど、それで楽になる人はそれでいいんだ。
この立場がいいとか悪いとか、優劣とか、そんなことを言いたいんじゃない。
だれかに喧嘩を売ってるわけじゃない。
1つの見方だけにとらわれなくてもいいんじゃないかなってだけ。

起こってしまったどうにもならないもの、なかったことにはできそうにないもの、
そういう記憶を原因としたとき、
その記憶はむしろ後生大事に抱えていくものになるんじゃないか。
いくら症状から離脱できたとしても、記憶はあり続ける。
大丈夫になったはずなのに、反芻してしまったり、再来におびえる瞬間が訪れる可能性はどうなんだろう。
「苦しみから解放されてしまったら、苦しんで来た時間は何だったんだろ」だなんて、
苦しんで来た人ほど、ふと思ったりする。
あれれれ~、苦しみがなくなることに不安を感じてたりする。
トラウマから楽になった人、楽になっていない人、
それだけじゃなく、ぼくたちみんなの心の中に、
いつの間にかできあがっている心の構え。
やってしまったこと、やらないでしまったこと、
あのときこうしておけば、みたいなことなんかの記憶の集合体としての過去。
もちろん、過去の影響が少なからずあることを認めるとしても、
そんな過去に、ぼくたちの人生は規定されるんだろうか。
トラウマを定義通りに認めるってことは、そういうことなんだ。

疑問が沸き起こったなら、別の方向を探ってみるときなんじゃないか。
原因=犯人捜しをやめてみたらどうなるだろう?

アドラーのストーリー

最近、流行のアドラーは、症状の原因ではなく目的を見ようとする。
目的を見ることは、膠着した生き方に風穴を空ける可能性がある。
ベストセラーになった「嫌われる勇気」岸見一郎・古賀史健・著では、
冒頭から引きこもりの事例を検討している。
そうなった原因よりも、そうなることによって、何を得ようとしているかを見ようとする。
この立場に立てば、原因を記憶に求めなくなる。
むしろ、目的のために特定の記憶を利用してるって見みようとする。
だから、トラウマに頼らない。
トラウマは定義を失うから、なくなってしまうんだ。

軽い例をあげるとイメージをつかみやすいかも。
日常会話で、うっかり口にするトラウマって言葉をみてみればいい。

彼女「わたし、ゴキブリに飛びつかれたことがあるんだよね。それがトラウマでさぁ」
彼「はいはい、しょうがないな。やっつけますよ」

これ、彼に、ゴキブリを始末してって言ってる。
自分じゃ、できない、やりたくないから、彼に動いてもらおうって目的。
あるいは甘えるって目的もあるかな。
まあ、この程度なら、口にした本人も、彼も分かっちゃってる。
だけど、本当に苦しんでいる場合は、
本人にも目的など見えていないし、作り出してるなんて、これっぽちも思ってない。

本人も周囲の人も、記憶の内容に注意を奪われた状態になってる。

難しいのは、症状の目的にうなずけるかどうか。
首を縦に振るくらいなら、苦しいままでいい、なんてことになったりしちゃう。
そういう点では、厳しいなって感じるかもしれない。
逆に、なぜ厳しいって感じるのだろう。
それは、苦しいって状況に、当事者も気がつかない目的が隠れてるからじゃないだろうか。


事例:被害者でいるために、苦しむ

法律的に、被害者ー加害者の関係を結ぶのは仕方がない。
けれど、心理的に、被害者ー加害者の関係を結んではいけない。

ことあるごとに、筆者は語りかけてきたから、
別の記事でも書いたかもしれないが、重複を怖れずに、ここでも記す。
頻繁に起こることなんだけど、特に虐待やいじめの中で、生じやすく、
トラウマとして扱いがちだ。
こうした事例は複雑に見えてしまうので、
ここでは割とスッキリ見える交通事故の事例をあげてみる。

50代女性、自転車で走行中、知り合いの運転する自動車に接触され、転倒。
整形外科にて、むち打ちと診断、加療するも、手のしびれと頭痛が続いた。
相当な期間通院するも、症状は続き、より悪化してきた気がして、当院を訪れた。

話をうかがっていて、筆者が気づいたことがあった。
知り合いである加害者に対して、怒ってる。
なんとかして罰することはできないかと思ってる。
加害者は、謝罪しているんだけど、それが通り一遍のものだと思ってるし、
そんな謝罪を受け入れてしまった自分もゆるせない。
でも、知り合いだし、しょうがないって、思い込もうとしてる。
表向きの態度と裏向きの態度ができちゃってるみたいなんだ。
筆者には、怒りを持続させ、罰することの大義名分を保持するために、
症状が利用されてるようにみえた。
途中の紆余曲折は省くけど、最終的に行ったのは、
ゆるしの儀式だった。
印象づけるために、あえて儀式っぽくしたんだ。
おごそかな雰囲気をつくり、あらたまった口調で、
加害者をゆるすって宣言してもらった。

ゆるすなんて冗談じゃない?
ゆるしは、加害者のやったことを見逃せってことじゃないよ。
泣き寝入りする、とか、堪え忍ぶってことでもない。
毅然とした態度で、対処すべきことに対処するのは言うまでもないんだ。
ただ、それとは別にね、
あなたが、憎み続けても、ゆるしても、加害者へ影響を及ぼすことはない。
そんなこと、お構いもせずに加害者は暮らしてるだろう。
それがゆるせない?
でも、そのゆるせないとなった瞬間から、あなたの心は、加害者に縛り付けられる。
加害者のためにゆるすんじゃないんだ。
ゆるしたことを加害者に知らせる必要もない。
ゆるしは、あなた自身のためにあるんだから。
あなたは、ゆるすことで、被害者であることをやめることができる。
あなたの心は、加害者との結びつきから解き放たれる。
被害を受けた事実は変わらないけど、前を向くことができる。
被害者であり続けるために、加害者を痛めつけ思い知らせるために、
あなたが苦しむ必要はない。
頭の中で、何度も何度も加害者を殺す必要もない。
症状を持っている必要はない。
ましてや、自ら死ぬ必要はない。
愛する人を思う時間より、加害者を思う時間の方が長いなんて、
やめよう。
あなたの人生は、あなたのものだ。
加害者なんか放り出せ。
そのために、ゆるすんだ。

で、むち打ちのクライアントが、どうなったか。
ゆるしの儀式の後、症状は激減した。


上記のセッション例は、
症状を目的から見るとどうなるかをわかりやすくするためにあげた。
あくまでも筆者流のやり方だ。
これが、アドラーだと思ってしまうのは適切ではないし、
いつもこんなにうまくいくとも思わないでほしい。
いずれにせよ、上で紹介したアドラーの本は読んでみるといい。
読んだことがある人も、何度でも読むといいよ。分かりやすいし、使えることが多い。

じゃあ、アドラーですべて解決! なのかってことなんだけど…。

すべての出来事に目的はあるのだろうか。
目的を追うことで、見逃していることがあるんじゃないか。
原因と同じように、目的も解釈次第で揺れ動く。
見当違いを、これこそ目的だって決めつけてしまうことだってあり得る。
それに、アドラーは、「こう考えたらいいよ」って言ってるんだけど、
その「こう考えよう」って思う意志はどうやって出てくるんだろう。
つまりね、アドラーの考えには、
「個人には選択する自由がある」っていう前提を当然としてる。
アドラーがあえて見逃して言ってるのか、
筆者が勉強不足でアドラーから見逃してるのか。
以前に書いたもの(選択する意志。あるいは自由意思はあるのか。)を
読んでもらってもいいんだけど…。

いずれにせよ、アドラーも1つのストーリーだってことを忘れちゃいけない。
原因、目的、選択って、ストーリーの中にあるんだ。
なんでもかんでもストーリーって言うなら、その外って何だろう?
それには、まず、自我のストーリーに気がつかなきゃいけない。

「わたし」という自我のストーリー

なぜ、そっちへ目をやったの?
なぜ、そこに座ったの?
あなたの興味はどこから来るのだろう?
あなたの衝動はどこから来るのだろう?
あなたの恋する気持ちはどこから来るのだろう?
あなたは、まだこの文章を読んでいるが、読もうと決めた考えは、
どこから来たのだろう?

興味も、衝動も、決断も、「わたし」が選んだことなのだろうか?

「わたし」とは何か。
「わたし」とは「~」なるものである。というときの「~」。
「~」に入るのは、解釈であり、思考だ。
つまり、「わたし」とはストーリーなのだろうか?

宇宙飛行士がみた国境

多くの宇宙飛行士が空の上で、語っている。
「国境はない」
真実、ただの広がった土地に国境はない。
国境は、ただの広がった土地に、解釈、思惑、思考によって線が引かれたものだ。
国境は、便宜上存在するものだ。
国境によって、あるいは守られているというストーリーであり、
あるいは阻まれているというストーリーだ。
そして、ときに命がけで国境を越えようとする。
思考しない動植物は、軽々と国境を越えるのに。

思考してはいけないと言っているのではない。
それは不可能だ。
思考はやってくる、常に。
やってきた思考のほとんどは、通り過ぎるだけだ。
だけど、そのうちのいくつかは、気に入ったり、気に入らないかったりする。
そうして、「わたし」の思考になる。

何を言おうとしているかというと、
「わたし」と「あなた」ができあがる瞬間を記述しようとしているんだ。

「わたし」と「あなた」

だだの広がった土地に思考によって線が引かれて、
国境になったように、
ただの広がった宇宙に思考によって線が引かれて、
「わたし」と「あなた」ができた。

もともとをたどれば、全体だ。
宇宙という1つの全体が動いている。
それを、「わたし」と「あなた」という狭い観点で解釈しようとする。
だから、問題は、常に生じる。
線の引き方と解釈次第だ。
宇宙という全体の動きの一部分を切り取って、
原因と結果、あるいは目的に当てはめようとする。
そして、選択が可能だとする。

試しに、問題がない状態を想像してみよう。

それには思考を無視して、線を引かないということを想定すればいい。
そうすれば、宇宙全体が「わたし」になって、問題は消える。
そして、同時に「わたし」も消える。

「わたし」が消えるってことは、
「わたし」にとって恐ろしいことかもしれない。
だから、普通は逆のことをする。
「わたし」を保持するために、思考に執着し、
解決に向かって努力する。
そこに意味を見いだそうとする。
ところが、それは、真実ではないので、
そこから目をそらすかのようにストーリーは組み立てられ、
そして、壊され、また組み立てられ、壊される。ということが、繰り返される。
このことが、いけないわけではない。
なぜなら、線を引かない状態の持続は、気がつく「わたし」がいないってことだから。
「わたし」がいれば、何らかのストーリーの中にいるってことだ。
幸運にも、線のない状態を、垣間見る瞬間が訪れたとしても、あっという間に過ぎ去る。
「国境はない」と語ったはずの宇宙飛行士が、
地上へ降りれば、ないはずの国境に絡め取られてしまうのと同じに。

もっと気楽に生きていい

さて、言ってることは単純なんだ。
単純なんだけど、言うのは難しい。
だから、聞く方もこんがらかる。
荒唐無稽なことを言ってるわけじゃない。
天動説から地動説へ、
ニュートン力学から量子力学への転換と同じ見え方の提案だ。
少し整理しながら、おそらく1番興味を持っていること、
このことが何の役に立つのかを見てみよう。

現実にあるのは、宇宙全体の動きだけ。
その動きの一部分に線を引いて、切り取ったのが、
「わたし」や「あなた」。
「わたし」や「あなた」ができると、ストーリーが始まる。
ストーリーには問題が付きもの。
問題に対しては、いろいろな感情がくっつくものだけど、
その一方、問題は、ストーリーの作り替えを促すように見える。

というけれど、問題もストーリーも、「わたし」や「あなた」も、
宇宙全体の動きに含まれている。
宇宙から隔絶されて生きている人はいない。
孤独になりようがない。
ただ、孤独なんだという思考で、そう思っているだけ。
そう、「わたし」や「あなた」は思考や行動を所有しているように思っているけど、
思考や行動が、宇宙全体にかかわりなく起こることはない。
個人的に見える思考や行動は、常に宇宙全体で起こっていることなんだ。
その思考や行動に、
たまたま「わたし」の波長が合っちゃったって言う方が本当に近い。
ラジオをつけたら、いきなり音楽が流れたみたいなもんで、
ラジオが演奏してるわけじゃない。
「わたし」が考えたって思いこんでいるけど、
考えが通り過ぎようとしてるだけ。

「わたし」という個人は、宇宙全体のつながりの中にいる。
宇宙全体の動きは「わたし」の動きだ。
「わたし」の動きは、宇宙全体の動きと一体だ。
その動きの、原因や目的を推し量ることなどできやしない。
ただ、動きがある。
細部をみれば、個々の動き。
より大きな視点でみれば、全体が調和して動いているようにみえる。
舞台芸術のような、ダンスのような…、動き。
「あなた」も「わたし」も、ダンサーだ。
踊って、どこへ行くのかと、問うのは的外れだ。
ダンスは、踊ること自体が目的ではなかったか。
「あなた」の敵だと思っている「あいつ」も、
「あなた」の別の面を表現して踊る「あなた」でしかない。
いわば、自分で自分を傷つけたり、自分で自分を励ましたり、
そういうストーリーを繰り返し繰り返し、
ヴァージョンを変えながら踊ってる。

様々な問題が消えるとは言わない。
やらなくちゃいけないことがなくなるとは言わない。

だけど、「あなた」が宇宙をどうにかしようと試みることはない。
多くの人が、宇宙をどうにかしようと苦闘する。
自分の望みを達成するために。
どうにかできる方法があると言う人たちがいる。
それは、そういうストーリーを信じてるってだけでしかない。
そう、もちろんこの文章も言葉で書いている以上、ストーリーに陥っている。
それでも、伝えたいのは、
宇宙が「あなた」をどうにかしようと面倒をみてるってこと。
起こっていることの責任を「あなた」は取りようがないってこと。
世間で言われていることとは、だいぶ違う。

それにね、いつもストーリーに覆われて見えないことが多いけど、
とても簡単に言えば、
いつだって、宇宙は「あなた」を抱いている。
どこかを探す必要はない。
いつだって、「あなた」の中に太陽は輝いている。

信じるとか信じないとか、どうでもいいんだ。
これがそれだ。
「あなた」の思うこと、
「あなた」の行うこと、
それらは、すべて宇宙全体の反映なんだ。
だからね、全力で取り組んでいい。
そしてね、もっと気楽に生きていい。
宇宙の動きが、どこへ連れて行ってくれるか、
楽しんでいいんだ。

もし、苦しさの中にいるときに、
このことを思い出すことができたなら、
ほんの少し、心がゆるんで、
「あなた」の中の太陽から
光と暖かさがもれてくるのを
感じるかもしれない。
そうしたら、
状況は、思ってたほど悪くないって、
見えるかもしれない。

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