死と生のために~for Truth

がんの終末期に関わることを通して

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開業以前の90年代後半頃から現在に至るまで、たくさんの終末期のクライアントさんにかかわらせていただいています。
たまたま通っていらした方がそういう状態になられたこともありますし、知り合いの医師やセラピストに紹介されてということもあります。慌ただしさの少ない普通の空間と、比較的のんびりした時間の中で、お話をうかがうというのがよいのだと思います。
もちろん、ご家族、あるいは治療に携わる医師ほど濃密にかかわるわけではありません。ほんの束の間、貴重な時間をご一緒させていただくだけです。
ですから、分かった風に何かを語るというものではありません。
ただ、この距離感だからこそ、見えてくるものもあるはずだと思うのです。
ガンも治る病気になりつつあると言われます。
それは、言い方を変えれば、治らない人もまだいるのだということでもあります。
今回取り上げるのは、回復のプロセスではなく、人生において避けようのない死を見つめる試みです。
いまは亡きクライアントさんたちに敬意を払いつつ、綴ってみたいと思います。

私にできることは話を聞くことだけ

抗がん剤でへとへとになった身体を休めにいらっしゃる方。
転移するんじゃないかという恐れに、居ても立っても居られない気持ちを吐露しにいらっしゃる方。
ご自身のことより、家族の心配をなさる方。
いろいろな話をすることや、整体をすることなどで、多少でも楽になったと実感されると、頻繁に顔をお見せになります。
その頻度が間遠くなれば、回復されて、活動再開されたということです。
それが、パタリといらっしゃらなくなるのは、入院なさるときです。
終末期の場合、たいていは後者です。

病室にて

筆者は、その病室へ出向くことがあります。
セッションを依頼されてなのですが、この状況で、ためらいがないわけではありません。治療の妨げや家族との時間を削ってしまうことになったら本末転倒です。けれども、クライアントさん本人の希望となれば、筆者に何ができるのだろうという思いを脇に置き、見舞客の1人として足を運びます。
まずは、ご本人とご家族から、いまの状況をうかがいます。特に、医師からどのように言われているのかは、大事です。それを気安くひっくり返すような発言は慎むべきだと思うからです。
その後、ご家族は外の空気を吸いに出かけることが多いです。せっかく筆者がいるのですから、病室に詰めっぱなしのご家族は息抜きです。それに、家族の前では言いにくこともあったりします。もちろん、すぐに連絡が取れるようにしてあります。

さて、ひたすら耳を傾けます。
整体とは便利なもので、身体にタッチするのは自然なことです。ベッドに寝たままで固くなった身体の、あっちこっちに触れていきます。そうするとリラックスして来るのです。そして、いろんな話が出てきます。
それまで口にするのをためらっていた言葉も出てきます。病室という閉ざされた空間は、セッションルームのような気楽さとは違います。もっと切実で、出てくる言葉は穏やかだとしても、どこか激しさがあります。
医師や病院への不満、家族への申し訳なさ、何で自分にこんなことがという怒り、等々。
だれにも面と向かって言えなかった言葉。
なぜって、みんなが一生懸命ってことは、重々わかっているんです。それは、なによりも自分自身の状況へのいらだちの表れです。
これは、「死ぬ瞬間」の著者として有名なエリザベス・キューブラー=ロスの提唱した「死の受容プロセス(否認~怒り~取引~抑うつ~受容)」です。まさに、それを目の当たりにして行きます。
そして、始まるのが、人生の振り返りです。
その時々の、懐かしさ、悔恨、喜怒哀楽が語られます。
幼かった頃のこと。両親のこと。友人のこと。そして何より、家族のこと、仕事のこと。

やがて、死について。
家族の前で口にすれば、「縁起でもないこと言わないで」になりますし、医師に言えば、「そんなこと考えずに治療に専念しましょう」になってしまう。けれども、どうしょうもなく、まもなく自分こそが経験するであろう死です。
死とは何か、死後はあるのか、死んだらどうなるのか、いやいや、そもそも自分は十分に生きたと言えるのか…。
本当に真剣に語り合います。

こうしてさまざまに語った後、「ああ、よく生きた」と呟くクライアントさんの顔は神々しく光り輝きます。

そのように見えるのです。
それは決して、筆者の気のせいだとは思えません。

訃報。そして、私の抑うつ

そんなセッションを何回か重ねた頃、覚悟していたはずの訃報が届きます。
残る役割は、セッション中にうかがったご本人の言葉を、ご家族に伝えることだけです。
ちゃんと自分で伝えてくださいと励ましたものの、なかなか言えずに逝ってしまう。
面と向かうと、なるべくいつもの自分を見せようとしてしまうのか、憎まれ口をたたいてしまう。
そうして、たぶん言い損ねてしまうかもしれない言葉。
おこがましいのだけれど、必要がないのかもしれないけれど、念のためにと拾い集めておいた言葉を、お伝えするのです。
けれど…

筆者は、なぜか抑うつ気分にとらわれて…。
抑うつですって、何てことでしょう。
一体、私は何を望んでいたのでしょう。
奇跡でしょうか。
私の仕事が役立ったという証でしょうか。
そりゃ、リラクゼーションではない、お直し系整体屋としては、あわよくばと思わないことはなく…。
いや、そんなことではない。
だったら、怖れ?
最後の幾ばくかの時間を無駄にさせてしまったかもしれない。
あるいは、疑い?
しっかり向き合うことができていたのか。もっと、もっと。
過ぎたことは、どうにもならないのに。
答え? 答えが欲しいのか。
人生が死をもって終わりとするなら、そもそも人生の目的とは何なのか。
どれもこれも、結局は自分の心配でしかない。何て奴だろう、私って。

そんなことを思い巡らしていると、あたかも眼前にあるかのように、あの神々しい顔がいくつも浮かんでくるのです。

訃報の度に、こんな風に同じ所をぐるぐると…。
もう、かっこつけるのはやめましょう。
しっかり見ていないのは自分の内面でしかないのです。
もう少し、筆者自身の内に目を凝らし、「死」を見つめてみることにします。

死を見つめる

死因というけれど

死とは何でしょう。
生物学的には、脳の停止? 心臓の停止? いや、代謝の停止。
それで、話が終わっちゃう。
他に何か…。
死とは、
忌避すべきもの、あってはならないもの、おそれるもの、悪いもの、拒み遠ざけるもの。
そんなに嫌うのに、やがて確実に起こる。
どんなにジタバタしても,老いて死ぬか、病気で死ぬか、事故や災害で死ぬか。
死は、これらを利用する。
そう、結果として死ぬというより、死のために原因が用意されているかのように。

死因の1位がガンだという。
そのガンがこの世から根絶されたとしても、次の死因1位が登場するのは明らかだ。
人はガンで死ぬのではない。
死が、ガンを利用している。
それなら、考えようによってはガンも悪くはない。
余命を知り、予定を立てられる死など、そうあるものではない。
いや、いっそのこと、死こそが、最後の治癒とでも思ってみるか…。
いずれにしろ、その状況になって、他人事ではなく、自分事として考えられればの話。

死という現象

やはり人は健康に気を遣い、安全なところに住まいを求めることをやめない。
その道の権威ある人の言葉にしたがい、あれはしてはいけない、これもしてはいけない、それはやらなくてはいけない、と自由を捧げてみたりもするが、安心は束の間でしかない。
それでもその不十分さに耳目を塞ぎ、死を意識から閉め出そうとする。
しかし、この戦略は初めから破綻している。
病気ならば、罹る者がいたり、罹らない者がいたりする。罹ったとしても治る者がいたり、治らない者がいたりする。そう、奇跡的な回復すらある。
こうしたらいい、ああしたらいい、そうした意見に振り回されてみたところで、病気一つですら、結果を左右する本当のところは、見えやしない。
死はすべてをすり抜ける。
死は治るとか治らないを超えている。
病気などではないのだ。
ただ、死という現象なのだ。
時と場所と状況を選ぶこともできはしない。
避けようがないもの、気をつけようがないものを、気をつけようとして、不安な歩みを続けることになる。

このように人生の末路が否定的であると思っているなら、人生の旅程その全体もやはり否定的なのだろうか。
「死」の原因をあえて求めれば、「生まれる」ことだ。
生まれた瞬間から、死へ向かう。
花を楽しまず、しおれた花殻摘みに明け暮れているのと同じに、人生の花を楽しむ暇はない。
それは、それで良いも悪いもないのだろう。皆がそうなのだから。
だが、それは、悲しく、苦しい。

否定的でないとするなら

では、死に対する否定的見解をひっくり返せばいいというのだろうか。
死は素晴らしいもの、歓迎するものとか?
もちろん諸手を挙げて死に急ぐ必要はないのだろうが、それで何が変わるだろう。

昨今は健康寿命とか言って、健康でなければ死んだ方がましなどという人がいる。
お金がないなら死んだ方がまし、
恋に破れたら死んだ方がまし、
夢が叶わなかったら死んだ方がまし…。
まるで、死よりも嫌なことがあるかのようだ。
どれも五十歩百歩、額面通りに受け取るわけには行かない。
自分だけは、そうなりたくないと言っているだけでしかないのだ。
人生は都合よく行かず、ましてや、死は都合よく訪れはしない。

あるいは、死後の世界へ生まれ変わるという手もありか。
よりよく死後の世界を享受するために、いま生きているこの生を良く生きなくてはいけない。
なんてことだ、どこかで聞いた言葉が繰り返されているだけだ。
将来のために、いまを捧げなければいけないと努力したのは、いつの日か…。

死後があるなら、前世があるのか?
いまの生活がうまくいかないのは、前世で悪いことをしたからなんて、身も蓋もない。
何が良くて何が悪いのか、見る立場によって変化してしまうものが、人の生まれ変わりにどのように作用すると言うのだ。
人生を良い悪いで判断するには、人生を俯瞰して眺める視点が必要になるが、それはだれの手にあるのだろう。
分かっていそうな人にしたがって、顔色をうかがう?
そんな人がどこにいる?
信じてるからいいのです?
もちろん、それでいい人には何も言わない。
しかし、そうやって目を閉じて、確実だと信じる保証書を持ったつもりになるのか。
目を開けて、よく見よう。
その手には何もない。
誤魔化してはだめだということだ。
どちらを向いても、言いしれぬ不安は押し寄せるだろう。
そして、恐怖を押し殺した笑顔ほど、あの神々しさからほど遠い顔はない。

信念を透かして、世界を見ている

それなら、どうするのか。
ここまで書いてきたことを読み返せば、すべては見解でしかない。
身も蓋もない言い方に思うかもしれないが、そうだのだ。
死を観念的にとらえてしまっていることに、気づくべきだ。
観念、思考、思い込みでしかない。
信念でしかない。
しかし、その信念を透かさずに、人は世界を認識することができない。
このことにこそ、信じることではなく、自分自身で見出すべき何かがあると言えないか。

世界は入れ子構造

世界では、さまざまな戦争が繰り広げられている。
あなたの身体では、殲滅戦の真っただ中だ。免疫機構は、外来者を許さない。
あなたの心では、どんな戦いの最中だろう?

昨日まで、よい人と思っていた隣人が武器を取れば、テロリスト。
昨日まで、仲間だと思っていた細胞が暴走すれば、ガンになる。
昨日まで、あなたが思っていたことは、どうなった?

あなたの心は、何を良しと見て、何を悪いと見るのだろう?
それが、あなたの信念をあぶり出すに違いない。
生命の本当の手触りは、その向こうにある。

(この記事の初稿は2014.11.21「フィルターシステム」の一部でした。再編集版です。)

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