心のこと~for Mind&Spirit

「あきらめない」は「あきらめる」の中に現れる

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リオオリンピック、見た?
筆者は、手が空くと、自然にテレビのスイッチを入れてた。
ふだん目にしない競技とかが、けっこう楽しかった。
勝っても負けても、頑張った選手たちには、拍手だ。
引き続きパラリンピックも応援しようと思う。
オリンピックと関係あるってことではないんだけど、「あきらめる」「あきらめない」について。

オリンピックで金メダルを取った選手が言う。
「最後まであきらめなかったのがよかったんだと思います」
そういえば、ノーベル賞受賞者も言っていた。
「あきらめずに続けたから、結果が得られたのです。だから皆さんも夢をあきらめないでください」

なにごとも、あきらめずに取り組むことが大事だ。

おそらく多くの人がそう信じているし、そうありたいと思っている。
マスコミは、あきらめないをクローズアップするのが好きらしい。

一方で、あきらめが肝心だ。なんて言う言葉も耳にする。
夢なんか追わずに、現実的になりなさい、なんて。

ぼくたちは、「あきらめる」と「あきらめない」を使い分けている。
使い分けながら、どちらかというと、「あきらめない」が上で、「あきらめる」は下だと感じている。
あきらめたら、負けだと思っちゃってる。
そのことで、苦しみを深めてしまう人もいるんだ。
だから、ちょっと書いてみた。
何を言いたいかというと、こんな風に言い換えると分かりやすいかな。

「あきらめる」⇒多様な可能性の受容。たとえるなら、この文章の余白。
「あきらめない」⇒ある1つの可能性の追求。たとえるなら、この文章の文字。

反対の意味を持っているかに見える言葉だけど、とらえ方を見直す。
余白は、文字があろうがなかろうが、余白であり続ける。
文字は、余白がなければ、現れることができない。
ひとたび、文字が現れれば、余白は黙って文字を支え続ける。

同じように、「あきらめる」がなければ、「あきらめない」は現れない。

スポーツ選手が、勝ったときのあきらめない

勝った選手は、あきらめなかったから勝ったんだと思い込んでいる。
じゃあ、負けた選手は、あきらめたのだろうか。

そうじゃないんだ。
ちょっと勘違いをしている。

勝った選手が、たとえばインタビューを受けて、勝因を考える。
すると、いろいろな思いが浮かぶだろうけど、そういえば、最後まであきらめなかったな、と思う。
なぜって、追い込まれた局面では、応援を背にして頑張ったわけだし、
と同時に、過去の負けた記憶に照らし合わせ、そのときはあきらめてしまったような気がしてくる。
そして、勝ったのはあきらめなかったからだ、との思いを強くする。

ほんとうは、「あきらめる」と「あきらめない」が激しくスイッチしている。
Aで攻めたが、かわされたので、Aをあきらめ、Bにする。
Bもかわされれば、Bをあきらめ、Cでいく。
そもそも、この競技以外のことはあきらめて、練習に集中したんじゃなかったか。
攻められて、負けそう。
こんなこともあるよな。負けるのやだな。とか頭で考えるのをあきらめる。
あきらめたら、身体は頭の反応を待たずに動き出す。

溺れる人はあきらめていない

バシャバシャ、激しく水しぶきが上がっている。
必死だ。
ここで手を緩めたら溺れちゃうと思っている。
だから、岸辺から叫ぶ人の声に耳を傾けようとはしない。

岸辺の人は叫ぶ。
じたばたするんじゃない!

溺れる人が、あきらめたなら、可能性が開くのだ。
立てるほどの深さしかないことに気づけるのかもしれない。
あるいは、自分が水に浮かぶことに気づけるのかもしれない。

パラリンピックの選手

パラリンピックの選手は、あきらめることから始めたはず。
たとえば、何らかの事情で足の機能をあきらめなければならなくなった人がいたとする。
その人の心は、水に溺れた人のように、じたばたするはずだ。
とっても激しく。
時には、自分の身体そのものを憎悪するかもしれない。
また、投げやりな人生にしてしまおうとするかもしれない。
こうした態度を取る時の、この人は、足を欲している。
なぜ自分がこんな目にという怒りとともに、足をあきらめてはいない。
だが、それはやってくる。
文字は、次の文字へ行くために余白を通らねばならないんだ。
ついに、その人は足の機能をあきらめる。
そして、車椅子を利用する可能性を開く。

その姿以外に装うことをあきらめる。それが自分なのだ。
だから、車椅子で外へ出る。
義足を装着してみたりもする。

そして…、
何でも自分でこなそうとする努力はあきらめないつもりだが、できないものはあきらめるしかない。
悔しさは残るが、手助けを拒むことをあきらめる。
そうやって、あきらめたり、あきらめなかったりを繰り返しながら、外へ出る可能性を開き続ける。
よく考えてみれば、それって足の機能があるろうがなかろうが、パラリンピックの選手じゃなくったって、だれにでもあることなんだ。
自分の肉体を受け入れる。
そして、熱中するスポーツとの出会いがやってくる。
という1つのたとえ。

健康に関すること

ずいぶん前になるんだけど、たくさんのサプリメントを飲んでいるクライアントさんがいた。
1月に ウン万円!
思わず、それで、効果を感じてるのってきいた。
そしたら、あんまり、だって。
じゃあ何で飲み続けるんだろう。
それは、以前、調子悪かったときに、サプリメントで改善されたからなんだって。
いやあ、もちろんそれでもかまわない。否定するつもりはない。
だけど…、依存だよね。どうあがいても身体は必ず衰える。だから、どこかで折り合わなければいけなくなるはず。
と、思ったら、セッションに来たのは、サプリをやめるために、背中を押してほしかったからだったんだ。
その分のお金で、海外旅行するんだって、喜んで帰って行った。

過剰に健康を追い求めても、頭打ちになる。そうしたら、あきらめるしかないんだ。
それが、身体というものだから。

それからね、症状を完全になくそうとするのも同じこと。
実際、痛みがあったり、病気だったり、症状に苦しんでいたら、治したいって思う。それが、最優先事項になる。
だから、治療に専念する。
やりたいことが後回しになる。やりたいことをあきらめる。
治ったら、ああしよう、こうしよう。
でも、治療が長引くような症状なら、どんどんできないことが積み重なっていく。
人生が、治療に捧げられていく。
だからね、ここであきらめることも必要なんだ。
完治をあきらめる。
症状がなくなることをあきらめる。
勘違いしてほしくないんだけど、これは単純に治療をやめちゃうってことじゃない。
やめることもあるだろうし、継続して治療に取り組むこともあるだろう。
そうしていながら、できることをあきらめずにやる。チャレンジする。
友人と最後にお茶をしたのはいつ?
そんなことから始めたっていい。
健康やら、治療やらのために、お金と時間を費やすばかりで、笑顔が減っていないだろうか。
笑うことを、最優先事項にしちゃうんだ。

症状があるってことに気づけていること。
気づけている自分がいるってこと。
そこにフォーカスしよう。
それが、症状に支配されないってことだし、治療のための人生にしないってことだ。

あきらめるのは、意外に難しい

「  あ  」って、壁に大きく書いてあったら、余白より文字の方へ目が行く。

肩の力を抜いてって言われたら、かえって力が入っちゃう。

同じように、あきらめることが難しい場合がある。
水に溺れる人がそう。
療養生活が長すぎちゃった人の中にもいる。
資格の勉強のためにって、なんとなく過ごしている人の中にもいる。
それって、たいてい恐怖がともなっている。
あきらめることの恐怖。
あきらめちゃったら、何をしていいかわからないっていう恐怖。
新しいことをするには、ちょっとした勇気がいるからね。
どんなに苦しくても、あきらめないで、しがみついている方が楽に思えちゃう。
そんなときは、あきらめないをしっかりやるしかない。
しっかり肩に力を入れて、力が抜けるのを待つように。
やがて、あきらめるが起こって、世界はもっと広いんだってことが見えてくる。

実は、あきらめるは、ぼくたちの意思とは無関係に起こるものなんだけど、そのことは、また別に書くよ。

まとめ

1つのことを一生懸命にやる。
これをやりきると決めると、これの他はあきらめることになるのだろうか。

1つのあきらめないことと、その他のあきらめること。
1つをあきらめるなら、他のことに気がつくのかもしれない。

可能性の問題?

1つの可能性にしか目を向けないとするなら、他の可能性を閉ざす。
1つをあきらめてしまうなら、他の可能性にすがってしまうのか。

ああだ、こうだと可能性を探る。
そうやって可能性を楽しむ。
それが、ぼくたち。

そしてね、
本当の気持ちに気がつかないふりをするのをあきらめよう。
他の人の気持ちを気遣うのは、悪いことじゃないけど、限界はある。
その人の本当の気持ちは、当人にしか分からないんだから。
同じように、あなたの本当の気持ちはあなたにしか分からない。
どんなに分からないふりしてたって、どうしたって気がついちゃってる。
あなた以外に気づける人はいないんだ。
押さえ込むことをあきらめよう。
気がついたからって、それが行動に結びつくかどうかは、別のこと。
だから、大丈夫なんだって。
そしたら、ほら、肩の力が抜けるでしょ。

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