心のこと~for Mind&Spirit

世界をもっと楽に見るために~信念システムを超える存在感覚

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主体的に生きるために 4

勝たなきゃ。
勝つために戦う。
何に勝つのだろう。
だれを打ちのめすのだろう。
それが、ぼくたちの住んでいる世界なのだろうか。

守る。
自分を守る。家族を守る。国を守る。平和を守る。
何から守るのだろう。
ぼくたちは、守らなきゃいけない世界に住んでいるのだろうか。

心配する。
健康の心配、家族の心配、お金の心配、人間関係の心配。
自分の思った通りになるかどうかを心配する。
自分のやったことが正しかったかどうか、心配する。
そうして、いつの間にか、ぼくたちの心の中は、戦いに満ちている。
原告と被告と裁判官が同居しているって、ある先生は言っていた。
保証書の発行されない人生の中で、確実性を探し出そうと、やっきになっている。
ちょっと楽しいこと、ちょっと変わったことに手を出したりするのは、気を紛らわすためなのだろうか。
ぼくたちは、そんな世の中に生きているのだろうか。

こんなことを言うのは、気が弱いからだと言うなら言えばいい。
でもね、これは気が強いとか、弱いの問題ではない。
意志の強さや意識の高さだとかいう問題でもない。
心の強さ、身体の強さや、経済の問題でもない。
いい加減ごまかすのはやめようってこと。
どうあがいたって、心の底に隠した不安は消えやしない。

ちょっと立ち止まってみよう。
身も心も疲れ果てる前に。
死にたくなっちゃう前に。
ぼくたちは、ちゃんと世界を見ているのだろうか。
ちゃんと自分自身を見ているのだろうか。
そんなことを疑ったことがあっただろうか。
疑って、しっかり見てみよう。
そうすれば、この世界は、もっと気楽な世界に見えるのかもしれないから。

世界をどうやってみているか

ぼくたちにあるのは、感覚。
見たり、聞いたりと言った、いわゆる五感がある。
ときに事情があって、そのどれかに不都合があるとしても、この五感の中のいくつかが感覚としてある。
そして、その感覚を即座に解釈する思考がある。
これだけで、他にはない。
何かを感じて、それを解釈するというシステマチックなことがなければ、認識は起こらない。
見る感覚は、光の波長と振幅によって、色の違いと明るさの度合いを感じるってことで、
感じた光が、椅子だとか机だどか、あの人だとかって言えるのは、解釈する思考があるからだ。

じゃあ、こんなのどう?
同じ状況にいるのに、Aさんは、わー大変だって言う。
でも、Bさんは、なんとも思ってないどころか、おもしろがってる。
これは、感じる感覚の違いなのだろうか。それとも解釈する思考の違いなのだろうか。
感覚は、感じるってだけで、問題を作り出したりはしない。
問題を作り出しているのは、思考だ。
言っとくけど、いいとか悪いとか言いたいわけじゃない。
ぼくたちが、どういう風に物事をとらえるているのか、当たり前すぎることを書き記しているに過ぎない。

で、どういうことかって言うと…、

人は物事を認識するとき、ピュアに見ることは、ほとんどない。
必ずと言っていいほど、色眼鏡のような解釈する思考というフィルターを透してみている。
それが、どんなに色の薄い眼鏡だとしても、眼鏡を透していることにかわりはない。
身体の不調にしろ、悩みごとにしろ、やはり色眼鏡を透している。
だとするなら、眼鏡によっては、不調も悩みも、ずっと大変なことに見えちゃうんじゃないかな。
ひょっとしたら、ないものを見てるってことだってあるかも。
えー、そんなことないって?
いいねえ、疑いながら読んでもらうのが1番。

とにかく、この眼鏡の性質を調べることをしてみようって思うんだ。
眼鏡って言うのは、何だろう。
それって、思考体系とか思考スタイルとかなんだけど、もっと何て言うか、それとは気がつかずにいてしまうもの。
思い込み、信念。ときに、常識。うん、こう言ったほうが近い。
そして、信念は1つというわけではなく、もっと信念どうしが複雑に絡み合った、信念体系をなしている。
ぼくたちは、この信念体系をとても深く信じていて、にもかかわらず、信じていることを忘れている。
そして、当然、疑うこともしない。
この成り立ち、性質を見ていくことで、そこから生じている誤謬に気がつくことができて、生きるのが自由になるはずだ。

「個人的現実」と「合意のとれた現実」

個人的信念体系

さっきも書いたけど、見るという感覚をもう一度みてみよう。
「見る」という体験を純粋に突き詰めれば、視覚が捉えているのは、光の波で、「色」とその「強さ」だけ。
輪郭、奥行き、質感、その物の名前とかって、それらは、解釈する思考で、それは推測・憶測でしかない。思い込みであり、信念でしかない。
周りを見回してみよう。
色が途切れている箇所があるだろうか。
「ここは色がないよ」なんて箇所はない。
ある色からある色へ変化が生じる箇所を、おそらく輪郭として判断している。
これの意味するところは、視覚は世界を分離のない一続きととらえているってことだ。
庭先を横切る猫も、あの人も、見上げた月も、視覚にとっては繋ぎ目のない一続きなんだ。
思考が登場して、初めて分離が生じる。
たとえば、椅子に座ることを見てみよう。


椅子を椅子という物の信念と照合して、
[椅子がどんなものかわからないといけないね]
全宇宙から区切り取って認識し、
[背景と椅子をわけて、部屋の中から椅子を見つけ出すんだ]
周りの状況を含めた諸々の信念と一致するから座ってよいのだと判断し、
[座ってもいい椅子なんだってことや、他の人を押しのけなくて大丈夫そうだとか]
椅子という機能の信念に従って座る。
[座り方を知らないとね]
これら信念の一部を裏切って展示されると、トリックアート(だまし絵)とか、現代美術の作品になったりする。
[尻もちついちゃったり、極端に座りにくい椅子だったりとかあるよね]


このように、人は信念体系によって、宇宙から出来事を区切り取って認識し、判断し、働きかけをする。
これは、別に悪いことではなく、生活していくためになくてはならないシステムとなっている。
食べ物を食べ物として認識できないと、肉体を養うことはできない。という具合に有用なんだ。
ここで注意しておきたいのは、これら機能のためには、過去データの参照が不可欠だということ。
出来事を前にしたとき、対応する信念は記憶から呼び出される。
と同時に、蓄積されていく記憶によって、信念体系は、より複雑さと厚みを増し、個性化していく。
すなわち、信念体系システムは、その持ち主固有のものとして機能することになり、全く同じものを持つ人はいないのだと言える。
こうして、ここに「個人的現実」が立ち現れる。
(記憶に関しては、もっと違う見方の方がいいと思っている。なぜって、記憶を思い出すってことが起こるのは、今なんだ。あのときの記憶だって思っちゃうんだけど、それは、さっき思い出したり、あとで思い出したりじゃない。常に今思い出す。だけど、ここでは、ここでのわかりやすさを優先することにする。)

共有される信念体系

個人的現実が、他者と関わるためには、他者と共有されている信念体系がなければならない。
それは様々な規模、広がりを持っているはずだ。
たとえば、家族には、その家族としての、隣家の家族とは異なるその家族構成員特有の信念体系がある。
また、地域には地域の、国には国の、性別だったり、職業だったり、酒好きなどの趣味嗜好だったりにも、そこに所属する人どくとくの信念体系がある。
もちろん、外から見たら同類に見えても、当人にしたら違うと主張することもある。
酒を飲まない人が言ってくれる「飲み放題だよ、ほらワインも」な場面で、もちろんそれがいい人もいる一方、「いやあ、飲み放題で出てくるワインはちょっとね」、な人もいるわけで…。
ともかく、こうした共通する信念体系が、この世の現実と呼ばれるものを認識させている。
こうした現実が「合意の取れた現実(Consensus Reality)」だ。別に会議を開催したわけではないが、いつの間にか、「こうだよね」みたいな合意形成がなされているわけ。
これによって、人と人のコミュニケーションが成り立つんだけど、そこには少なからず伝え合う努力がいる。
というのは、共有される信念体系であっても、個々人の信念体系に依存しているからだ。「あれ」「それ」だけで通じたり、暗黙の了解なんてのは、まれってことだ。

信念体系システムの形成過程

ところで、信念体系は身につけようと思って身につけたものではない。
一体どのように身についてしまうのだろう。
ある1つの仮説を提示しておこう。

生まれ落ちた赤ん坊は、生(なま)の現実を体験する間もなく、この世界の「合意の取れた現実」に合意するよう導かれる。
つまり、この世界で生きるための仕方を身につけなきゃいけない。
すなわち、

…母はこう言い、父はこう言い、
学校の先生はこう言い、友はこう言い、テレビはこう言い、
この地域ではこう言い、あっちの地域ではこう言い、
日本だとこう言い、アジアだとこう言い、
酒好きはこう言い、酒嫌いはこう言い、
と言う具合。

いつかだれかが言った言葉を耳にして、合意する。教え込まれてしまうと言ってもいい。
もっと過激にこのプロセスを表現する先生もいる。
「飼い慣らし」と。
このように、人は生まれた時から、いくつもの合意を繰り返しながら、生きていく。
ある意見に合意をするってことは、その意見を知識として取り入れたってこと。
その知識は、その人の信念体系に編み込まれていく。
そして、経験を積み重ねることで、必要かつ適切な信念を呼び出すことができるようになって、判断・解釈が滞りなく行われるようになる。
はずなんだけど…。
実は、信念どうしの間に整合性が保たれているわけではない。
なぜか。
「合意の取れた現実」を教えるふりをして、「個人的現実」を言い合っていることがほとんどだからだ。
そのため、その人の「信念体系」は、どこかに矛盾をはらむ可能性のある合意を重ねて、形成されている。

まとめると、
その人と出来事との関わりは、生(なま)ではなく、常に自動的に起動する、その人固有の矛盾を含む信念体系システムを通して行われている。

信念体系システムの活動例

信念体系システムがどのように働いているのか、その活動例をいくつかみてみよう。
出来事を感覚が察知したあとの、物事の受け取り方や対応の仕方に特徴が出る。

例1:私は自由だが、周りに合わせて行動しなければいけない。

相反する信念が綱引きしている。
いわゆるダブルバインドっていうやつだ。
これは、とても多くみられる、というか、この世の中は、ダブルバインドで成り立っているんじゃないかと思えるくらい。
個性的であれ、と言いながら、協調性を求めたり、
感情を豊かに、なんて言いながら、その感情を押し殺すことを求めたりしちゃう。
地域や共同体によって度合いは異なるだろうけど、どの社会でも見つけることができる。
とりわけ親子関係や教育現場の中では見つけやすいかもね。
思い出してほしい、両立するには矛盾がともなう課題を与えられたことはなかっただろうか。
あるいは、与えてはいないだろうか。
だれでも少なからず、経験はあるはず。
「いい子」なんて評価されたことのある人は、この信念綱引きに引き裂かれることがある。
そういう人が何かやろうとすると、アクセルとブレーキを同時に踏んだようになりがちだし、
ついには腰とかが痛くなるなんて、よくあるからね。
そう、身体症状に出るんだよ。

例2:ショッピングの途中、思いも掛けず、良い物を見つけた。欲しいと思って値札を見ると、高価だ。

よくあるシーンだと思うけど、この状況をどう捉えるかには信念体系システムの特徴が出る。
A:高くて、とてもじゃないが自分には手が出せないから買わない。買えない。
B:買えるけど、今日は買わない。

両方とも結論は買わないのだが、持っている信念が違う。
Aは、不足・欠損、使うとなくなる、といったことが顕著。
これは、コップ半分の水の例えと同様だ。「半分しかない」と言うのか、「半分もある」と言うのか。
勘違いしないでね。
どっちがいいとかを言いたいのではないよ。ましてやポジティブシンキングしようなんてことでもない。

例3:パワースポットと呼ばれる所へ旅行した。

A:パワーをもらって、力がみなぎる。
B:リフレッシュして、力がみなぎる。

これはどうだろう。
些細な違いに思うかもしれない。
よく使っちゃうしね。元気をもらう、とか、勇気をもらう、とか…。
信念体系システムを調べるには、自分がどのような言葉を使っているのかが、重要な手がかりになる。
励ましたり、勇気づけたりって、それはいいことなんだけど、その陰に隠れているかもしれない信念にも目を向けておきたいんだ。
ということで、この例を挙げた。
パワースポットと呼ばれるような場所へ出かけたことがある人は多いと思う。筆者もけっこう好き。たいてい気持ちのよい場所と感じるよ。パワーという語で何を示しているのか人によって違うから、一概には言えないんだけど、そのパワーをどのように扱うのかが表出する。
Aは、結構きわどい信念。
パワーをもらうということは、裏にパワーを補給しなければいけない、とか、パワーを失う、とか、パワーは奪われるなどの信念が隠れていることが多い。少なくともパワーの片寄りに合意があることは間違いない。
つまり、パワーは獲得しなければならないし、獲得したパワーは奪われないように守らなきゃいけないってことになっちゃう。
パワーというものが、いつの間にか物質的経済活動に置き換えられているんだ。
このことは、パワーのある場所やパワーのない場所、パワーに富んだ人やパワーの簒奪者などという特別な存在を区切り取る可能性を秘めている。
特別性・特殊性で言えば、次のようなことを耳にすることがある。

例4:ビジネスセミナーへ出かけた。

A:私の仕事は特殊なので、あまり参考にならなかった。
B:私の仕事とは異業種の話だったが、大いに得るところはあった。

Aは、特別性を主張する信念を持っている。
特別性っていうのは、分かりやすくするために極端に書いてみると…、
特別であろうとすることは、他から切り離されていなければならない。
他が同等であることや、優れていることを認めてしまうと特別性を失いかねないから、とても防衛的で、他に対し懐疑と排除の目を向けがちだ。また、ときには攻撃的で、他を貶めるような発言をしたり、暴力に訴えたりすることで、特別の地位を守ろうとする。
しかし、これら手段がどうにもならなくなると、自らを過剰な負へ落とし込むことで、「どうせ、私なんか」と言いながら、なお特別性を維持しようとする。

例5:例2から4まで、AとBを並記してありますが…。

いつもBのように考えているから私は大丈夫、などと思ったとしたら、それはAよりも優れていると、自分に特別性を付与している。しかし、そう思ってしまうのも無理はない。なぜなら、人は、

「信念体系システム」=「自分」と思い込んでいる

よく、「人前で本当の自分が出せない」という人がいるが、人は常に否応なく、人の前だろうが、どこであろうが、信念体系システムに被われているかのようだ。
友人関係で使ってしまう信念システム。
親の前で使ってしまう信念システム。
仕事場で使ってしまう信念システム。
ぼくたちは、いろんな信念システムを使い分けている。
どこまで行っても、「私」と「世界」との間に、スマホアプリのような信念体系システムがある。
俳優が役柄を演じるように、周囲への対応の仕方、物事への対応の仕方を変えている。
この対応の仕方にこそ、人の性格傾向や個性が顕著に見られるんだけど、これは信念システムが見えているだけなんだよ。

この信念システムが本当の自分だと言えるだろうか。

違う!
スマホって言ったら、スマホアプリのことじゃない。
スマホはスマホで、スマホアプリはスマホアプリだ。
両者は、限りなく密着しているけど、まったく別べつのもの。
それと同じくらい明らかに、信念システムは自分ではないものだ。
それなのに、この信念体系を守るために、人は命がけで戦うってことをする。
人を殺すし、自分も殺す。
自分をどんどん痛めつける。
もっと信じていなければいけない。
強い信念がなければ、物事はうまく行かないんだって。
うまく行かないのは、もっとうまく行かせるためには、信じ方が足りないって。
もっと信じる、信じなきゃいけないって。

ちょっと待って。
真実は、信じようが信じまいが、変わらず真実のままだ。
真実には、信念なんて必要ない。
信じなきゃいけないのは、疑ってるからってこと。
嘘は信じないと崩壊する。
つまり、信念システムは、信じていることで力を得ている。
そして、信じていないと崩壊するってことを、ぼくたちは怖れている。
自分じゃなくなっちゃうんじゃないかって。

だから、さっきも書いたように、信念体系システムは、自分じゃないんだ。

それは、単なる思考に過ぎないもの。
ちょっと便利な道具でしかないもの。
それを守るのに必死になる必要はない。
それにぬかずき、いのちを捧げてしまうような奴隷になっちゃっわなくていい。
要するに、信念体系システムは、主体ではないってこと。
その証拠に、

信念体系システムが書き換わっても、自分は自分だ

アプリを入れ替えたって、スマホはスマホってのと同じ。
ずっと変わらないで、永続している信念システムはないんじゃないかな。
よく思い出してみて。
いまよりもっと若かったころと、変わってしまっている信念が、1つや2つじゃないってことに。
それでも、自分っていう感じはあるでしょ。

その気があろうとなかろうと、出来事の経験によって変わってしまうのが、信念体系システムだ。
ある日、まったく違う人物のように振る舞うようになって、周囲を驚かせることだってある。
演劇、映画やテレビドラマで描かれるのは、まさに、この信念システムが書き換えられる一連の経緯。
小説なんかもそう。
芸術は、日頃、疑うことのない信念システムに疑いの目を向けさせようとする。
もっとも大きな改変が起こるのは、人生における行き詰まりや失敗なんかが起こったとき。また、大病を患ったり、大怪我をして、九死に一生を得たとき。
こうした危機的な出来事をきっかけに、信念システムが激しく変わることはよくある。

一方、積極的に、この信念システムを書き換えようとするのが、セラピーと言われるもの。
あらゆるセラピー、心理、コーチング、スピリチュアル、自己啓発、成功法則、占いetc.
成り立ちや方法は様々だが、いずれも、この信念システムの改変を目論みている。
どうにかして、セラピストはクライアントの信念システムに働きかけようとする。
そして、たとえば、先ほどの例のAの傾向を持つ人に、Bの傾向を持つよう習慣付けを示唆する。
だが、それがうまくいくという保証はない。100パーセント、絶対とかいうセラピストはいない。いたとしたら、あやしい。
なぜか。
いくつか理由はある。
1つには、一個人の信念体系システムの全部を知ることができないってこと。どうしたって不可知な領域の方が大きくて、そこがどのような振る舞いをするかわからない。経験のあるセラピストなら、想像しながらパターン化して処理できるだろうけど、それだからって、手に余るほどの逸脱が起こらないってことではない。
それに、どうやったって、信念を信念で置き換えることにしかならない。主体であり得ない、自分であり得ない思考をいじり回しても、服を着替えるのと一緒。もちろん悪いことじゃないんだけど、着せ替えごっこの域を出ない。

じゃあ、主体である自分は何かってことさ。

無条件にある感覚

信念体系システムが自分ではないとなると、本体の自分は何だろうって気になるところだ。
だけど、それには、直接答える術はない。
「自分とは何か」、と問うたとき、答えられるのは、「自分ではないもの」についてなのではないだろうか。
自分が使用する言葉や考えに注意を払うことで、それが、自分がまとっている信念体系システムの反映に過ぎず、自分本体ではないって、気づくことはできる。
うーん、だけどね、これをやったからって、特別、何かが起こるわけじゃない。ただ、思考に振り回されにくくはなるだろうけどね。

ちょっとの間、思考を離れよう。
空に浮かんでいる雲を眺めるように、思考を眺めながら、
思考よりも前にあるもの、五感を意識しよう。

そして、その五感に先立つ感覚があることに気づこう。
圧倒的に確実な感覚。それは、

存在しているって感覚だ。

デカルトは、「我思うゆえに我あり」って、思考があるから存在があるって言ったけど、本当は違う。
存在しているって感覚が先にある。
この感覚は、どのような身体の状態であっても、どのような心の状態であっても、どのような生活の状態であっても、そして、どのような思考状態であったとしても、ゆるぎなく確実な感覚としてあるはずだ。

この無条件にある存在感覚が、まずあって、
そこに、五感が入ってくる。
それから、思考が入ってくる。
心が入ってくる。
身体が入ってくる。
世界が入ってくる。

ぼくたちが、常識だと思い込んでいることと、まったく逆のこと。
これが本当のこと。

そして、この存在の感覚から、すべてを見直してみよう。
どうだろう?
世界は、思ったより気楽に見えないだろうか。

これが何の役に立つの?
って声が聞こえてきそうだね。
思考が、主権を主張している声だ。
思考は、信念保持のために役立たなければ、存在を認めない。
そうして、ああしなきゃ、こうしなきゃが始まっちゃう。
でもね、思考が生じるには、先に存在がなきゃいけない。
存在は、条件を持たない。無条件なんだ。
だからね、くつろいでごらんよ。
ただ、存在するって感覚のままに。
そうするとね、愛に満たされていることに気がつけるだろう。

存在が無条件であることは、無条件の愛であるということ。

これより大事なことがある?
他のこと、あれやこれやは、このあとのことなんだ。

 

(この記事の初稿は2014.11.21なんだけど、大幅に書き換えたので、新しい日付で投稿です。)

 

 

 

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