心のこと~for Mind&Spirit

嫌な感情に抵抗することが、身体の負担になる理由

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感情というのは、どこで感じているのだろう?
実は身体で感じている。
身体を流れる、ある種のエネルギーとして感じている。
問題は、ぼくたちが、時として、このエネルギーの流れを滞らせてしまうことだ。
そして、このことで人生のいろいろな局面で不都合を来すのだけど、ここでは主として、身体に不調を来している可能性を探ってみたい。

身体で感じてみよう

簡単な実験をしてみよう。
空を仰ぎ見るように、胸を反らせて、腕をバンザイしてみよう。
どんな感情を思い浮かべるだろうか。
たとえ、たったいま最悪な気分であったとしても、ちょっとだけ付き合って、想像してみてほしい。
どうだろう?
たぶん、好ましいポジティブな感情を思い浮かべるのではないだろうか。
ポジティブな感情は、主として、ぎゅっと身体を縮めるときに使う、身体の前面側の筋肉集団(おなか側の筋肉集団、これを屈筋群と呼ぶのだけど)を緩やかにのびのびした感覚としてある。そして、その感覚はじっとしているのではなく、広がっていく。この感覚の動きは、心地よいエネルギーの流れとして感じることができる。

じゃあ、今度はうつむいてみたら、どんな感情を思い浮かべるだろうか。
すると、今度は、できれば避けたいと思ってしまう感情、ネガティブとして分類される感情ではないだろうか。
ネガティブな感情は、屈筋群を縮め、呼吸を浅くするような感覚としてある。そして、その感覚は収縮するようなエネルギーとして感じられることになる。

ここまでは、観察しやすい筋肉群の感覚としてとらえてみたけど、実際には、心拍数、呼吸、血圧やホルモンバランスの変動も加わるだろうことは、想像がつく。
怒っている人を観察すれば、顔を真っ赤にして、頭から湯気が出そうな勢いがあったり、身体中がブルブル震えていたりする。自分自身の経験をふり返ってみれば、それに近いことがみつかるはずだ。

そして、こうした感情のすべては、ポジティブにしろ、ネガティブにしろ、やがては消滅していく。身体を通り抜けていくように、消えていく。
なのに、ぼくたちは、その消えていく感情を留めようとしてしまうんだ。

感情の流れを止めてしまう2つの要素

1 ポジティブな感情をもっと味わうために

楽しいことがあったときとか、もっとこれが続けばいいのにって、思うことはない?
なんとか、楽しさを引き留めようと、身体のどこかに力を入れる。
それは、人によって多少の違いはあるんだけど、たいていは、物を引き寄せようとする筋肉のどれかを使って、感情を取り戻そうとする。つまり、それは屈筋群のどこかに力を入れているってことになる。
そこに力を入れると、どうなるんだっけ?
屈筋群を縮めるってことは、ネガティブな感情を感じるときと同じ状態にするってことだ。
楽しさを長引かせようとすることが、楽しさを半減させているんだ。

2 ネガティブな感情を味わいたくないために

嫌な感情なんか感じたくないよね?
そんな感情が訪れたとき、人は防御態勢を取って、その感情をできるだけ感じないようにする。
どうするかっていうと、屈筋群に力を入れる。少なくとも、自分にそういう状況が起きたときに観察していれば、屈筋群のどこかが活性化しているのを感じるはずだ。
それと、もう1つ。
実は、こっちが重要かも。
背中にある肩甲骨の間だ。ここを締める。力が入っている。まるでガラスのハートを守るように。
嫌な感情は、攻撃しにきたわけじゃない。だけど、まるで攻撃されたかのように身構えて、なんとか感じないようにしようとする。
ちょっと考えれば、おかしなことだ。
感じちゃってる感情を感じないようにしているだなんて。
このことが、感情が通り過ぎるのを阻害する。
だから、嫌な感情ほど、長く留まってしまう。
それだけじゃない。これは記憶にも留まって、そのときの香り、そのときの音、そのときに目にしたもの、そのときの味などとを結びつける。その後、ずいぶんたって、そのときのことを忘れてしまったとしても、ふとしたときに、そのときの香りを嗅いだりすると、なぜだかわからない嫌な感情がわき起こる、なんてことが起こるんだ。

それに、屈筋群と背中に力を入れ続けていたら、どうみたって血行悪そうでしょ。
そしたら、肩や腰のあたりが調子悪いってなるかもしれないんだ。

「闘争-逃走反応」と呼ばれるもの

もう少し身体の機能についてみてみよう。
感情とは関係なさそうに見えるかもしれないけど、一般に「闘争-逃走反応」とか言われている反応がある。これは、物理的脅威に対して(えーっと、身体を傷つけられてしまうような敵に対して)、戦うか逃げるかで対処するために、身体の機能が、筋肉優先になるよう自動的に働くことなんだ。
交感神経が圧倒的優位になって、心臓はバクバク、胃はムカムカ、エンジンがアイドリングしているみたいに身体はブルブル、手足は汗でベトベト、周りの音は聞こえづらく、視野は狭く、おまけにランチに何食べようかなんて考える余裕も失う。(なんだか怒りの感情に似ているね)
原始時代を考えてみれば、草原で出合っちゃった野獣に対して、そうやって人は生き残ってきたんだろうなって思う。
これが、現代社会に生きるぼくたちにも起こる。日本みたいな、比較的暴力の少ない社会では、精神的な状況で起こってしまうことがほとんどだ。
これ、実は困るの。身体のエンジンがフル回転してる状態で、精神的な対応ではエネルギーのやり場がない。
日常生活や職場で、殴っちゃうとか、脱兎のごとく逃げるってことは、刑事ドラマでもない限りお目にかかることはない。むしろ、そんなことをしたら、その後の立場がなくなる。
だから、抑圧する。押さえ込む。がまんする。うっかり暴言とかしちゃったら、悶々と悩むことになる。

さらっと、精神的状況って書いたけど、どんな状況なんだろう。
会議の席で、恥になるようなことを言われた。
友達だと思ってたのに、陰口をたたかれた。
彼女(彼)と別れ話になった。
財布を開けたら、ない。
定年退職した夫が、ずっと家にいる。
その多くは人間関係だし、お金の問題かもしれない。
でもね、突き詰めれば、感情のことだって、わかる?

人は感情と戦っている

あの人さえいなければ、
あいつさえちゃんと動いてくれれば、
十分なお金があったなら、
⇒わたしの感情はネガティブを感じないですむのに。

そう思って、周囲を思い通りに整えようとするけれど、全部がうまく行くわけない。
うまく行かなかったちょっとのことに、すごく悩んだりする。
うまく行った大半のことだって、いつ崩れるかわかりゃしないから、しょっちゅう点検しなきゃならない。
そんな安心のない状態が続く…。
別に泣き寝入りを推奨しているわけじゃない。毅然とした態度を取っていいんだ。
その上で、ここで気がついてほしいのは、周囲の状況は、感情を生じさせるきっかけにはなったけど、それがそのまま敵だとは言えないってことだ。
周囲と戦っているんじゃない、本当は自分の心に生じた感情と戦っているんだ。
しかも、それを増幅させているのは、感じているものを感じないようにしようとする自分だし、以前に抑圧した感情の記憶、言ってしまえば、未分別未処理の感情ゴミを溜め込んできた自分だ。

こうして、感情を感じないようにするために身体に力を入れ続けている。
また、戦っているために「闘争-逃走反応」を微妙に継続させてもいる。
これがどれだけ身体に負荷をかけていることか。
やがて、身体が悲鳴を上げてもおかしくない。
そうすると、ほとんどの人が、身体をどうにかしようとする。
もちろん、そうしていい。
けれども、それだけではおさまらない。
心の中が戦場のままなんだから。

すでに感じている感情を認める

なぜ、人は、それほどまでにネガティブ感情を押し殺そうとするのか。
それは、感情を自分が起こしたことだと思い込んでいるからだ。
幼い頃のしつけや教育を思い出してみればいい。素直な感情表出は、だめだとされる。それなら、適切な感情表現の仕方を教えてくれたらいいはずなのだが、たいていそれはない。ないから、がまんするしかない。
がまんできるんだから、それは自分が起こしているんだと思い込む。
そうなると、たとえば恐怖を感じたら、それは自分の弱さと関連づける、みたいになっちゃう。
そして、感情をコントロールしなきゃって思ってしまう。
その最たる感情が怒りだ。
怒りはちょっと特殊な面を持つ。

その攻撃性は、まさに「闘争-逃走反応」にもってこいだ。身を守るために戦う力と結びつく。
でも、野獣とは出合わない。
また守りでもある。他の感情を隠すために怒りが利用されることが多い。恐怖や悲しみを紛らすために、怒りに置き換えてしまうんだ。これは「闘争-逃走反応」の逃げるに相当すると言ってもいいのかもしれない。
でも、そこには嘘がある。
そして、その破壊性から、抑圧されることもまた多い。周りの誰かを傷つけたり、自分の立場を危うくする可能性があるから、がまんするんだ。
でも、そうやってがまんしたあげく、どれだけの感情を溜め込んだんだろう。それを保つために、どれだけのエネルギーを使い続けるんだろう。そうやって、身体を固めたままで、いいことなんてあるんだろうか。

もう一度よく考えてみよう。
感情を感じることに、不都合はあるのだろうか。
怒りを感じているからといって、だれかを傷つけるとは限らない。
むしろ、抑圧し続けて、一杯いっぱいになってしまうから、破壊につながるんじゃないだろうか。
感じている感情を感じてないって、自分で自分に嘘をついていることが、何かの役に立つのだろうか。
すなおに感じてるって、自分自身で認めることは、そんなに怖いことなのだろうか。
他のだれかに言うわけじゃない。
自分が感じている感情を、そのまま自分で、ああ、自分はいま感じてるんだなって…。

感情は感じてしまえば、おしまい

あなたは、感情ではない。
あなたが感じている感情は、たんにあなたを通り過ぎようとしているある種のエネルギーでしかない。
だから、通らせてあげよう。
屈筋群をゆるめ、背中をゆるめ、胸をひろげよう。
そう、シャッターを開けるんだ。
そして、感情を感じるままにしておこう。
気を紛らすような何かをしたくなっても、そのままにしておこう。
ただ、やるべき日常の作業に向き合うんだ。

そうやっていると、また別の感情がわいてくるだろう。
次々とわいてくるだろう。
それはかつて抑圧した感情だ。
あなたが、感情が通り過ぎるのをゆるしたことで、通り過ぎるためにわき上がったのだ。
だから、それもそのまま感じてしまおう。
そうすれば、溜め込まれた感情は、ビールの泡のように、次第に減っていくだろう。

もはや、決心しよう。
何が起きても、どんな状況でも、感情を感じる心のシャッターは開け放っておくと。
そうすれば、あなたに怖れるものなどなくなってしまうだろう。
なにしろ、感情は感じてしまえば、おしまいなのだから。

そして、すべての出来事は、あなたの感情を解放するために起こるのだ。

 

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